ハンドルを手離したら、広がった景色
”私が”ドライブする
運転するのが好きだ。行く先を自分で決めて、自分が心地よい音楽を流して、アクセルを踏むと最高にきもちいい。ハンドルの肌触りに安心するから、運転し始める前につい半周くらい撫でてしまう。「ドライブする」という言葉を使うとき、いつも「“私が”ドライブする」と主語を補いたくなる。
念願の自動車免許を取得した日、私の脳裏に浮かんでいたのは、大好きなドラマ『逃げるは恥だが役に立つ』で石田ゆり子演じる百合ちゃんが放つ名台詞だった。
「でもね。あなたが思っているより、ずっと遠くまで行けるのよ」
この台詞は、独身キャリアウーマンという生きざまを貫く百合ちゃんが、免許を持たない男性・風見の「(車が)なくても移動には困らない」という意見に対して返す一言だ。ハンドルを握りながら遠くを見据えてほほ笑む百合ちゃんは、数々の名シーンの中でもトップクラスに美しい。
私はもともと百合ちゃんというキャラクターが大好きだ。なぜなら、私が思い描く理想の生き方や老い方を体現してくれているから。私も百合ちゃんのように責任ある立場で働き続けたいし、自分が稼いだお金で素敵な部屋に住んで、自由な時間にお酒を楽しみたい。自律を基盤とした自由を身にまとって、しゃんと美しく老いていきたい。そして、そんな自分を誰よりも自らが肯定できたら、どんなにいいだろう。
風見の言うとおり首都圏の生活には不必要な車を、あえて所有して運転する。その選択だけでもカッコいいのだが、そこに添えられた「ずっと遠くまで行ける」という言葉は、百合ちゃんの美しさにつながっている気がした。私はこの名シーンに影響を受けて、私も絶対に免許を取って自分の車を持とうと決意した。
だから私は、愛車を運転することで自分の理想像を再確認していたのかもしれない。何よりも「“私が”ドライブする」ことが重要だった。私も百合ちゃんが語る「ずっと遠く」に続く道を、自分で走りたかったのだ。
「ずっと遠く」を、ずっと求めてきた
そのあと理想どおり「ずっと遠く」に来られたのかと問われると、押し黙ってしまう。約2年前、私はハッとして人生のドライブに急ブレーキをかけたからだ。
「ずっと遠く」って、そもそも“どこ”なんだっけ?
汗ばんだ手で握りしめ続けてきたハンドルは、その答えを教えてくれなかった。ドライブの記憶をさかのぼっていくと、そこには必死でアクセルを踏み続けてきた自分の姿がある。
例えば、仕事。私は新卒で広告関連の会社に勤めて2年で転職、教育業界の会社に勤めてそこも3年で辞めてフリーランスになって、今はその延長線上で会社を経営している。一応、選んだ職種でのキャリアは今年で6年目を迎えた。
正社員、会社勤めという一般道から外れた時点で、百合ちゃんのように管理職を任され、女性社員から期待の星と呼ばれるような活躍は望めなくなってしまった。組織に溶け込みながら自分の強みを発揮して、規模の大きな事業の一部となって働けるひとを、心底うらやましく思う。
でも、個人事業主として今日まで生きてきたことはそれなりに誇れるし、ずいぶんと難易度の高い案件も任せてもらえるようになった。いつも心身に無理のかかるハイスピードで努力し続けて、なんとか死に至る事故は避けてきた結果でしかない。
例えば、恋愛と結婚。上京してからはずっとパートナーとして誰かがそばにいる人生を歩んできた。遊び感覚で付き合った相手は一人もいない。常に結婚を意識していた。でも私の描く理想の結婚は、相手の理想とみじんも重ならないことが多い。
フルスロットルで働き続けたいし、家事は正直苦手だから分担したい。子どもを産む自分はまったく想像できない。親との関係は希薄で、“家族ぐるみ”という概念にアレルギー反応を起こす。あと、いつかは地元・北海道に戻りたい、そのときはあなたもついてきてほしいなぁ。
そんな気の狂ったような条件をすべて受け入れるほどに私を溺愛していた相手は、年端のいかない青年だった。迫りくる30歳という壁に焦った私は、その青年と勢いで結婚してしまう。ぜんぶ「“私が”ドライブする」から黙って助手席に乗っていろ、というスタンスで。彼は私に言われた通り、一歩も助手席から動くことなく、最後の一日まで私にしがみつき続けていた。仕事も家事もせず、無欲と従順を貫き、ぼんやりと死んだ目で過ぎ行く景色を眺めながら。私は、屍のようになってしまったその人を見て、自分の勝手さを心底呪った。人生も社会も知らない青年の一度きりの青春を、こんな我儘な女のエゴで奪ってしまったのだから。
私が人生のドライブに急ブレーキを踏んだのは、彼との離婚を決意したことがきっかけだ。その時点で、私は自分の大好きなふるさとの田舎町に、自分の稼いだお金で家を建てていた。その家から東京とオンラインでやりとりして、自分を生かすには十分すぎる売上を得て、かつ自由な時間に働ける仕事に就いている。潤沢な資金、自由な時間、豊かな環境。すばらしい景色が広がっている。
なのに、ハンドルを手放せなくなった私は、とてつもなく悲しくて泣いていた。だって、もうアクセルを踏むのがこわい。思い描いていた「ずっと遠く」なんて、じつはどこにもないんじゃないだろうか。そう考えると、自分がこれまで信じてきたものがすべて粉々に壊れてしまいそうだった。
ハンドルを離さない自分を好きでいたかった
私がとらわれていた「しなきゃ」。それは、自分の人生のハンドルを握りしめ、アクセルを踏み続けることだった。
目標を立て、ゴールに向かってギアを入れて“私が”ドライブする。そうしなければ、このドライブそのものに意味がない。自立こそが正義で、唯一信じられるものだった。これまでたくさんの人を、助手席や後部座席に乗せてきた。でも、一度たりとも運転席は譲ったことがない。そんな自分を好きでいたかった。いや、そんな自分じゃないと好きでいられなかった。認められなかったんだ。
でも、その「しなきゃ」は、ある出来事を経て、泡みたいにパッとはじけて消えた。
生まれて初めてバイクに乗った日
ドライブを放棄してモノクロな日々を送っていたある日、ある人と出会った。その人は私の人生にはあまり登場しなかったタイプの人で、じつに運転がうまいくせに、なんのこだわりもなく運転席を譲ってしまうような人だ。
その人は、バイクに乗るのが好きだという。私は人生で一度もバイクに乗ったことがない。正直、命を預けるにはあまりに頼りない乗り物だと思っていたし、車が生活の要となる北海道において、バイクは金のかかる娯楽でしかない。しかも、雪が降らないわずかなシーズンしか楽しめないのだから、よほど好きじゃなければ手が出せない。
そんなネガティブな本音は隠して、「人生経験として」程度の気持ちで、その人のバイクに乗ってみることにした。言われるがままにヘルメットをかぶせられて、「寒いから」とぶかぶかの厚手のジャンパーを着せられて、ちいさな子どもになったような気分になる。
その人の腹部に腕を回して、下半身に振動を感じながらドライブが始まった瞬間。全身をさらってしまうような風の圧力を一身に受けて、私は思わず笑ってしまった。
そこには、身を包み込む景色と、なんの隔たりもない空があった。「ずっと遠く」じゃなくて、今、ここにあるすべてが身体で感じられた。ダイナミックに過ぎていく街並は、車窓から見るトリミングされた絵とは異なり、流動的で激しい。ときどき生々しい自然の匂いが鼻をついて、驚くこともあった。対向車線を走ってくるライダーとは、自然と手を振り合う。“ヤエー”と呼ばれる文化なのだと、あとから教えてもらった。バイクは環境と溶け込み、人や生活を五感で感じながら、今を走る乗り物なのだと知る。
こんな不安定な乗り物のうえで、私はこれからたどる道順も知らない。ただ、あたたかくて無骨な運転手の体に、しがみつくことしかできない。でも、きっと大丈夫。何の理由もなく、そう信じられた。
たどりついたのは、海が見える場所だった。雲の影が水面の色合いを変えていく様子が、先ほど風を切って体感した景色とは対照的に、静かに時を刻んでいる。波が寄せては返す音を聴きながら、しばらくそのまま話して、何度も笑った。すぐに内容を忘れてしまうような話ばかりだったことだけは覚えている。
きっとこの人は、「ずっと遠く」なんてまったく興味がないんだろうな。でも、自分が走る道順のイメージは、はっきりと描けているらしい。そういう人にもしも運転してもらったら、私はいったいどこにたどりつくんだろう。久しぶりに胸のあたりがじんと熱くなって、まるでサイズが合わないジャンパーに着られている自分ですら、愛おしく思えた。
その日、私はようやく、ずっとしがみついてきたハンドルを手放せた。
行く先は未定だけれど
年末年始の休暇は、予算に糸目もつけず好きな食材をしこたま買い込んで、肉や魚やと盛大な宴を開催した。その宴の合間で「そういえば大好きなドラマを見返したい」と切り出すと、彼も「いいね」と乗り気である。『逃げるは恥だが役に立つ』はお気に入りという共通点を見つけた。
昼間からすっぴんスウェットで、そろそろワインのボトルが空きそうだ。ドラマのシーン一つひとつに感化されて、恋愛観とか結婚についてとか、今までの私なら実にシリアスな口調で切り出すであろう話題をずるずる吐き出してガハガハ笑う。隣でくつろぐ彼も笑っているから、まあ良しとしよう。
「でもね。あなたが思っているより、ずっと遠くまで行けるのよ」
百合ちゃんのその言葉が、久しぶりに胸の奥底に届いて、私はハッとする。
あれ、もしかして私。
そのあと浮かんだ言葉はすぐ消えた。いい、答えなんてどうでも。
たとえ誰が運転していても、何に乗っていても、ゆるゆるとしたスピードでも、時に止まっても。道に迷っても、もし事故に遭ってしまったとしても。このドライブはきっと、これからもっと楽しくなるし、愛おしく思えるだろう。
だって今、なにげないこの景色に溶け込んで笑えている私は、とても美しいから。
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